로그인雨の朝だった。
強い雨ではない。
窓硝子を叩くほどでもなく、庭の土を抉るほどでもなく、王宮の屋根を静かに濡らす細い雨。
ぽつ、ぽつ、と一定の間隔で落ちる音が、王国監査局三階の執務室にも届いていた。
以前のリディアなら、その音を聞きながら、どこかの雨漏りを思い出して胸を痛めていただろう。
聖ルカ孤児院の北側屋根。
濡れた寝具。
冷えた子どもの手。
支援優先度を下げられた申請書。
そして、その書類に気づくのが遅れた自分。
雨音は、罪悪感に似た音だった。
だが今は、少し違う。
雨音基金。
その名前がついたからだろうか。
雨が降ると、リディアは思うようになった。
どこかが濡れ
第75話 花嫁衣装と監査官章 花嫁衣装というものは、人を黙らせる力があるらしい。 少なくとも、リディアは鏡の前に立たされた瞬間、三十秒ほど何も言えなかった。 王妃宮の衣装室。 三面に大きな鏡。 高い窓から差し込む冬の淡い光。 床には白い布が幾重にも広げられ、机の上には銀糸、真珠、細かな宝石、刺繍見本が並べられている。 そして、リディア自身。 純白の婚礼衣装。 腰から下へ流れる布は、立っているだけで雪のように広がる。 胸元から袖へかけては銀糸で百合が刺繍され、歩くたびに光の角度が変わる。 頭にはまだヴェールを載せていない。 それでも、鏡の中の女は十分すぎるほど花嫁だった。「……すごいですね」 ようやく出た言葉が、それだった。 王都第一と呼ばれる仕立屋マダム・フローラが胸を張る。「すごい、ではございませんわ、リディア様。美しい、とおっしゃるところです」「自分で?」「誰も褒めてくれないなら自分で言うべきですし、これだけ似合っているのですから言っても問題ございません」 横からセレスティナが何度も頷いた。「お姉様、綺麗よ。本当に。今までで一番」「今までの私は?」「そういう面倒な聞き方しないで」「少し気になったので」「綺麗だったわよ。ずっと綺麗。でも今日は、その、別の綺麗なの」「別の?」 セレスティナは困ったように眉を寄せた。「うまく言えない。お姉様が、お姉様じゃないみたいで」 リディアは鏡を見た。 そして、ほんの少し黙った。
第74話 悪女監査官の朝 雨の朝だった。 強い雨ではない。 窓硝子を叩くほどでもなく、庭の土を抉るほどでもなく、王宮の屋根を静かに濡らす細い雨。 ぽつ、ぽつ、と一定の間隔で落ちる音が、王国監査局三階の執務室にも届いていた。 以前のリディアなら、その音を聞きながら、どこかの雨漏りを思い出して胸を痛めていただろう。 聖ルカ孤児院の北側屋根。 濡れた寝具。 冷えた子どもの手。 支援優先度を下げられた申請書。 そして、その書類に気づくのが遅れた自分。 雨音は、罪悪感に似た音だった。 だが今は、少し違う。 雨音基金。 その名前がついたからだろうか。 雨が降ると、リディアは思うようになった。 どこかが濡れていないか。 誰かが困っていないか。 声が小さすぎて、帳簿に届いていない場所はないか。 それは痛みでもある。 だが、痛みだけではない。 見に行くための合図でもあった。「監査官」 ロザリーの声で、リディアは顔を上げた。「はい」「雨音基金、初回公開報告書の清書が届きました」 ロザリーが机に置いたのは、厚みのある白い冊子だった。 表紙には、飾りすぎない文字でこう書かれている。『雨音基金 初回公開報告書 設立準備期支援配分および会計確認』 白羽の会の記念冊子とは違う。 金箔もない。 寄付者の肖像画もない。 美しい詩文も、王妃宮の過剰な称賛もない。 ただ、必要な情報が並んでいる。
第73話 婚姻契約、最後の確認 婚姻契約書というものは、もっと甘いものだと思っていた。 少なくとも、リディアはそう思っていた。 いや、厳密に言えば、貴族の婚姻契約が甘いものではないことくらい知っている。 財産管理。 持参金。 相続権。 居住権。 子の教育方針。 家名の扱い。 夫婦間での社交義務。 それらを定めるのが貴族の婚姻契約だ。 夢見る令嬢が想像するような、薔薇色の紙に愛を誓う文書ではない。 それは分かっている。 分かってはいた。 だが、それでも。 レイヴァン邸の書庫で目の前に置かれた分厚い契約書を見た時、リディアは静かに言った。「……これは、婚姻契約書ですか」 ギルベルト・レイヴァンは、当然という顔で答えた。「そうだ」「監査報告書ではなく?」「違う」「王国法改正案でもなく?」「違う」「雨音基金運営規則でもなく?」「違う」「本当に?」「本当に」 リディアは、表紙をもう一度見た。 黒に近い紺色の革表紙。 銀の角金具。 中央に、無駄に厳格な文字でこう書かれている。『ギルベルト・レイヴァンおよびリディア・ヴェルクレア婚姻契約最終確認版』 最終確認版。 その響きがすでに甘くない。 隣には、確認用の羽根ペン、付箋、訂正紙、条項索引、そして蜂蜜入り茶が置かれている。 完璧な監査準備だ
第72話 冷血宰相の婚約者ではなく 婚約した女は、社交界で急に便利な存在になる。 リディアは、そのことを知識としては知っていた。 誰かの妻になる予定の令嬢。 誰かの家へ入る女。 誰かの隣に立つ者。 そうなった瞬間、その人自身の名よりも、相手の家名や役職が先に歩き出す。 昔、リディアは第二王子エドガルの婚約者だった。 その頃、彼女に近づいてくる人々は、たいてい柔らかな笑顔をしていた。 殿下のお好きなお茶は何かしら。 次の慈善茶会に、殿下のお名前をいただけないかしら。 うちの息子の騎士団配属について、殿下に軽くお耳へ入れていただければ。 王子殿下はお優しいから、きっとお分かりくださるでしょう。 彼らはリディアを見ているようで、実際にはリディアの向こうにいるエドガルを見ていた。 そしてリディアは、その頃、自分をそういうものだと思っていた。 婚約者とは、橋である。 王子へ話を通すための、柔らかく、品よく、傷ついても声を上げない橋。 だから、ギルベルト・レイヴァン王弟宰相との婚約が発表された後、リディアに届く招待状の種類が変わったことには驚かなかった。 驚きはしなかった。 ただ、うんざりした。 それもかなり。「リディア監査官」 監査局の机の前で、セオが招待状の束を両手で持ち上げていた。 厚みだけで小型の帳簿くらいある。「本日の分です」「昨日も同じ量を見ました」「今日は少し増えています」「なぜ増えるのですか」「婚約者効果では」「正式名称ではありません」「何の正式名称ですか」
第71話 父は、娘の年齢を覚える レオポルド・ヴェルクレア公爵は、数字に弱い男ではなかった。 領地の収穫高。 王都屋敷の維持費。 従属家への貸付。 王宮へ納める税。 晩餐会一度にかかる銀食器の磨き代。 そういった数字なら、彼は覚えていた。 いや、覚えているつもりだった。 少なくとも、家臣たちの前で恥をかかない程度には。 しかし、監督官が公爵家会計室に入った日、レオポルドは自分が何も知らないことを知った。 公爵家の会計室は、北棟の奥にある。 昔からそこにあった。 だが、レオポルドがその部屋へ足を運ぶことは少なかった。 会計報告は執事長がまとめて持ってくる。 オルガが慈善関連の支出を確認する。 必要なものは机の上に置かれ、レオポルドは署名をする。 それで公爵家は回っていた。 回っていると思っていた。 今、その会計室の中央には、王国監査局から派遣された監督官が座っている。 年は四十前後。 名はマティアス・ローク。 淡々とした男で、声を荒げない。 だが、紙を見る目が怖い。 レオポルドは、最近そういう人間ばかり見るようになった気がした。 リディア。 ロザリー記録官。 監督官マティアス。 数字と紙の前で、妙に静かになる者たち。 彼らは怒鳴らない。 だから余計に逃げ場がない。「公爵閣下」 マティアス監督官が、一枚の名簿を差し出した。「まず、屋敷内使用人の名簿確認をお願いいたします」
エドガル・クレイム第二王子は、提出期限というものが嫌いだった。 昔から嫌いだった。 いや、正確に言えば、提出期限そのものを嫌いだと意識したことすらなかった。 なぜなら、期限が来る前に誰かが整えてくれていたからだ。 王子教育院の課題。 式典の挨拶文。 地方視察後の報告書。 慈善茶会への返礼文。 第二王子府の月次執務報告。 どれも、最後には綺麗な形になってエドガルの机へ置かれていた。 もちろん、彼も何もしていなかったわけではない。 目を通した。 署名した。 時には「ここの表現は少し冷たくないか」などと言った。 言った後、リディアが静かに直してくれた。 だから、自分は執務をしていると思っていた。 王子として必要な判断をしていると。 今になって思えば、あれは判断ではなく、整えられた皿の上から好きな果物だけを選ぶようなものだった。 種を取るのも、皮を剥くのも、傷んだ部分を切るのも、全部誰かがしていた。 その誰かの名前を、エドガルは長い間、きちんと見ていなかった。 リディア・ヴェルクレア。 王国監査官。 かつての婚約者。 そして、自分が便利な机のように使っていた人。 その事実は、最近になってから何度も胸の奥を刺した。 刺すだけなら、まだよかった。 問題は、今も提出期限は来るということだった。 王太子府の執務室。 エドガルの机には、分厚い書類が積まれている。 ヴァルモント公爵領の施療院薬代支援に関する差異報告。 白羽の会旧支援先への再配分確認。